これは食べられません。

本とか映画とか。わすれないために。

【読書日記】 江國香織「はだかんぼうたち」

 

  この本に主人公はいるのだろうか。

  めまぐるしく視点の変わる物語で、その中で登場人物それぞれの日常が営まれているだけなのに、なぜかずっとハラハラさせられる。彼らが、彼らのままに生活しているだけなので、そこには客観視できる善も悪もない。彼らはあくまでも彼ら自身であるだけなので、自らの視点で語られることこそがその人物の真実であり、それぞれに善があり悪があり、生き様がある。人間関係が交錯する中で、それらがあまりにもすれ違っているからハラハラするのだろう。みんな、自分勝手だ。でも人間ってそういうものだろう。

 

  そんな風に、それぞれの言葉で語られるそれぞれの思いや考え方、営んでいる生活は、読者には筒抜けである。(それが小説だけれど。ミステリー方式の作品以外は。)あんまりに赤裸々だから、「はだかんぼうたち」なのかな?

  けれども、実際は、わたしたちもそうであるように、彼らは彼らの人間関係の中では、「はだかんぼうたち」ではない。みんな、本音を押し殺したりして、生きている。だから、登場人物たちが、他の人物に抱いている印象や「この人はこういう人だ」という思い込みが、それぞれに違うから(また、そのキャラクターの本音を知っている読者からしたら間違っているようにさえ見えるから)面白い。そしてこわい。人間は多面的で、神様でもない限り、その人のすべてを知ることなんて絶対に出来ないのだ。子供の頃からの、唯一無二の親友だったとしても。落ち着かなさが、ずっとついてくる本だった。

 

 

  わたしがいちばん好きな作家は間違いなく江國香織だ。これまでに何度も読み返している。江國さんの本に出てくる、ちょっと困ったちゃんな、生きにくそうな女性たちが愛しくてだいすきだ。彼女たちはどこまでも孤独で、そんな言葉たちを読んでいると静かなきもちになれる。雨の日がよく似合うおんなのひとたち。江國さんの本の大きなテーマとして、孤独があるとおもう。どの本にも。

 

  だから、響子の語る大家族の騒々しい生活、母親としての責務にはまったく辟易してしまった。江國さんの本で、こんなにも騒々しさを感じることになるとは。でもそれも、鯖崎の言葉で納得する。響子もまごうことなき、江國作品の中の女性だった。神の視点を持って登場人物に触れているのに気づけなかった自分の読書能力を反省したい。

 

 

はだかんぼうたち (角川文庫)

はだかんぼうたち (角川文庫)

 

 

 

 

【読書日記】 西加奈子『白いしるし』

 

 こういう言い方はあまり良くないかもしれない、とおもうのだが、間違いなく、わたしの日常的な読書はひとつの「逃避行動」である。だいすきな江國香織さんも、エッセイの中で、推理小説の物語の中に「逃げ込む」というようなことを書いていた。(いま、探してみたのだけれどどのエッセイに書いてあるのか見つけられなかったので、この表現は正確ではないかもしれない‥‥。)

 

 ともかく、読書をしていれば、わたしはなにも考えなくていい。本を読んでいるのだから、なにも考えていないわけではないのだろうけれど、でも、本を読んでいるときのわたしはひたすらに“無”だ。登場人物たちの語ることばを、彼らが巻き込まれる大きかったり小さかったりする事件を、ただ追いかけていればいいし、そこに浸っていればいい。わたし自身の個人的なむずかしいことはほうっておいて、本の中でめぐる季節の、風の匂いを嗅いでいればいいのだ。なにも考えたくないからそうする。だから明らかに逃避だと、おもっている。

 

 でも、この本はわたしを元の場所に戻してくれなかった。

 いつもは意識的に、あちらに出かけてこちらに帰ってくる。たとえば普段、わたしは出勤の電車の中で読書をする。それから、お昼休みにも、気が向いたら読む。退勤の電車の中でも読むし、お風呂でも、煙草を吸うときのベランダでも、寝る前のベッドの中でも、読む。お休みの日には、日が差し込んでくるソファに寝そべって読む。喫茶店で珈琲を飲みながら読む。(やっぱり、お休みの日の読書がいちばんの至福だなぁ。)

 

 そうやってあちらに出かけても、諸々の都合によりタイムリミットは来るわけで、そのときには本を閉じなければいけない。そして、あたまのスイッチも切りかえる。この作業は、普段はとても簡単。本を閉じれば、案外あっさりとわたしはこちらに帰ってくることができる。習慣づいているから。でもこの本は駄目だった。主人公の夏目の、強い想いにあてられて、かき乱されて、全然こちらに戻って来られない。仕事の日に読んでしまって、すごく困った。仕事中でもつい、あたまの中で文章を反復してしまうし、夏目のことを考えてつらいきもちになったり、彼女の目に映る恋の情景を思い浮かべて甘いきもちになる。ページを捲る手をなかなか止められなくて、許されるぎりぎりの時間まで次の一字を読もうとしてしまうし、読む時間がなくなるのが惜しくて、休憩時間にお手洗いに行くことすらできなかった。笑。

 

 はじめて「恋愛小説」を読んだとおもった。そんなわけはなくて、これまで何冊も読んできたのに。はじめての手応えだった。

 恋に落ちて、相手にどんどん惹かれていくこころの中が、切実な、正しく選び抜かれたことばで書かれていて、すごく痛い。夏目のこころが自分の手の中にあるような、手触りや形がたしかにわかるような、そんな感じ。すごい勢いで、強引に連れて行かれる。たとえば夜の公園に。5ページに渡って書かれる夏目と『間島昭史』の会話文は、他愛のないやりとりなのに、読んでいてふたりがめちゃくちゃに愛しくなる。ふたりに幸せになってほしいと、心からおもうことになる。ふたりに恋をさせられる。なんなのだこの文章は、とおもった。だってほんとうに、ただの会話なのに。

 

 『間島昭史』という男が、好きにならないほうがいい男だということは読んでいてなんとなく伝わってくる。とにかく危うさのある男なのだ。(でも残念ながらそれがとっても魅力的でこまる!)ああ夏目、それ以上深入りしちゃだめだよ、そっちは危ないよ、とハラハラしながらおもうけれど、でも恋をしている夏目の語りが、すごくイイのだ。

 

 目線が同じだった。彼がこの身長なのは正しい、と思った。あと一センチでも高かったら、彼の存在は人に圧を与えて仕方がないだろう。この目はどうだ。まっすぐ届く、大きな瞳孔は、律儀に結ばれた口は、どうだ。彼は、猫背で歩いた。それも絶対に正しい。彼は何かを隠さなくてはならない。彼の造形は、間違いなく『間島昭史』のものだった。(50頁)

 

 この情熱!彼についてなにか言いたい、言わずにはいられない、という夏目のきもちが伝わってくる。そして、恋は盲目というが、そんなフィルターを通して語られているに違いない内容も、きっと誰が見てもまごうことなき事実なのだろうとおもわせてくる間島というキャラクターの魅力。彼は確かに『間島昭史』なのだろう。それ以外に言いようがないのだ。

 そして間島は、夏目が自分で触れられないところに、正確に触れる。夏目が知らなかったこと、気づかなかったこと、その存在を夏目に教え、意味を与えてしまう。ふたりにしかわからない、ふたりだから共有できる感覚。体の深いところ。だからわたしは、このままふたりに幸せになってほしいと、願いながら読まずにはいられなかった。でもそこには間島の危うさのせいで、それに気づいているのに逃げられない夏目のせいで、ずっと“嫌な予感”がつきまとってくる。だから切実に願い、はやく先を先をと、ページを捲ってしまうのだ。甘い恐怖だった。

 

 ブクログでほかのひとたちの感想を読んで、驚いた。「わからない」「怖い」と言っているひとが結構、多かった。わたしはもうやめてくれっておもうくらい、目の覚めるような痛みと実感を持って読んだのになんで!?とおもった。でもすぐに、このひとたちはきっと自分で自分を律して生きることのできるひとたちなのだろうな、と気づいた。だって夏目は少々、情熱的すぎる。(たとえば、好きな男とおそろいの刺青を肩に入れてしまう。)恋にのめり込みすぎて、それを失ったとき、どん底まで落ちてしまう。もちろん、失恋は人にとって最上級の痛みだ。でも、成就しているときの恋でさえ、夏目には自分を見失うくらいの負荷となっている。そういう、ある人たちにとって、恋は毒そのものだ。でもその毒がなくては生きられない。だからきっと、自分もそっち側の人間なんだってことを、否定できないことに、気づいたよ。

 この物語に出てくるひとたちは、みんな、そういう人間だ。みんながみんな、恋のせいで度を失っている。だから怖いという感想を持つのも頷ける。そんなひとたちがすごいちからで両手を引っ張るから、本の世界からこちらに帰ってこられなくなるのだ。たしかになんて怖い本だ。

 

 読んでいるわたしも、彼らと一緒に恋をさせられることになる。登場人物の目となってそれぞれの思い人に、あるいは夜の公園に浮かぶ月になって、恋を始めているふたりに。読み終わって放心した。(仕事だったというのに、一日で読み切ってしまった。)この本を読み終わるということは、わたしもひとつの恋を終わらせるということだった。そんなわたしに、そしてそれ以上に夏目に、巻末の栗田有起さんによる解説は素晴らしい救いだった。失恋を慰めてくれる友人そのもので、なんてこころに優しい解説なのだ、とおもった。

 ようやくこちらに帰ってくることができたので書きました。強烈な読書体験だった。

 

白いしるし (新潮文庫)

白いしるし (新潮文庫)

 

 

【映画日記】 河瀬直美監督『あん』

 


映画『あん』予告編 - YouTube

 

※ネタバレ注意です。

 

 平日の午前中に観に行ったのだが、劇場は満員。前から二列目という、普段だったらぜったいに選ばない席に座らざるを得なかった。平日の午前中という時間帯のせいか、他のお客さんはみんな高齢の方々。20代はたぶんわたししかいなかったんじゃないかな。

 高齢の方ばかりの劇場内は、いつもすこし肩身が狭く感じる。でも、映画の最中はその映画の面白さをリアルにびしばし体感できる感じがする。「みんなで映画を楽しむ」っていう空気が、作られている気がする。みんなで声を出して笑ったり、そこかしこでハナをすする音が聞こえたり。樹木希林さん演じる徳江さんのキュートな言動は、そんな劇場内を何度も笑いで揺らしていた。

 

 そう、とにかく、この映画、樹木希林さんがとっても素敵だった!!!

 登場時はただの不思議なおばあちゃんって感じだったのに、あんを作るために白い割烹着に着替えた瞬間、はっとしてしまうほどの美しさ。鍋の中の小豆を、顔をおもいきり近づけて見つめるその眼差しは生き生きとしていて、柔らかい太陽の光を浴びながら小豆の声を「聞いている」姿を、映画を観終ったいま、思い出すとじわっと涙が出そうになる。

 

 いやね、わたし、泣かなかったんだよ、最後の最後まで。両隣のおばさまとか、グスングスン泣いている声が聞こえてきていたんだけど、わたしは涙は出ていなくて。

 この映画、エンディングがめちゃくちゃ良いんです。本当に。秀逸。すごく素敵。

 観た人はわかるとおもうんだけど、最後、徳江さんの言う空や風の声が観ているこちらにも伝わってくる。そして、自分を受けとめ、生き方を見つけた千太郎の「どら焼きいかがですかー!」。そしてエンドロール。に入ってからの、声。

 なんだこのエンディング!!すげぇ!良すぎる!いい映画だったなー。と、泣くというよりもセンスの良さに感動してしまって。感情を揺さぶられるよりも、感心する(って言うとすごく上から目線の何様発言なんだけど)ほうに頭が持っていかれてしまって。

 そうしていたら、流れてくる秦基博。ぼけーっと曲を聴いていたら、泣いた。笑。エンドロールの途中で泣くだなんて‥‥。主題歌を聴いていたら、映画の余韻がすごく込み上げて来て。最後の最後にやられた。収まらなくて、泣きながら映画館を出て駅まで歩いた。笑。その足で原作小説を買いに本屋に行ったよ!!完全にやられたよ!!

 そして、原作を一気に読み終え、この記事を書いている。

 

▼徳江さんと千太郎というふたり

 徳江さんと千太郎が、相棒のような、そして親子のような関係にだんだんとなっていく過程が、とっても良い。柔和な性格なのに、わりかし強引でマイペースな徳江さんと、そんな彼女にたじたじになっている千太郎というコンビは見ていて楽しく、心がほっこりとさせられた。

 だからこそ、徳江さんがハンセン病を患っていたことが噂になって、客足が遠のいたことをきっかけにどら春を離れる場面はキツかった。

 いや!千太郎!止めろよ!行かせんなよ!!と、もどかしさにいらっとしたし、すごく悲しくて。原作には、千太郎の「やめるって言いだした徳江さんを、俺は守ってあげなかったわけだから」(119頁)と自分を責めるような一言がある。この場面、原作では徳江さんが自分から出ていくと言っているのだけど、映画では千太郎が追い出しているようになっている。どちらにしても、徳江さんの病気を知り、戸惑った千太郎が、自ら身を引く徳江さんを”守ってあげなかった”という事実は同じだ。

 千太郎は、昔、あるきっかけで塀の中に入ったことのある、前科者である。徳江さんとはまったく違う理由であるものの、社会から隔離されていたという点では共通している。そして、千太郎はその時期に母親を失くしている。千太郎は徳江さんに母親を重ね、徳江さんは千太郎に息子を重ねていたことが後に語られる。ふたりが「親子」になっていく様子が丁寧に描かれていただけに、すごくつらい別れのシーンだった。

 

 どら春で本格的に働くようになって以来、徳江さんは画面の中で必ず白い割烹着を着ていた。それを、この場面で脱ぐ(そして以降、割烹着姿は見られない)。割烹着を脱ぎ、私服に戻るということの意味。以降の項目で書く。

 割烹着姿の徳江さんは本当にキラキラとして見えるのに、私服に戻った途端、その姿の頼りなさ、小ささといったら。希林さんが演じ分けているのだろう、その佇まいが、すごい。本当に、いたたまれない気持ちになった。

 

▼ワカナちゃんという少女

 この物語において、とっても大事なもうひとりの登場人物、中学三年生のワカナちゃん。原作ではわりと地味……というか、普通~な印象なのだけど、映画ではめちゃくちゃ光っていた!ワカナちゃんの魅力なしではこの映画は成り立たない!!物語を通してじわじわと逞しく、綺麗になっていくように見えた。物語序盤では、地味で危なっかしい印象の女の子なのに、終盤の美しさたるや。特に、ボロボロになっている千太郎のところに、「あたし、ずっと探してました」と言ってやって来るシーンなんて最高すぎた。あんな美しい女の子にそんなこと言われたい!迎えに来られたい!!!!!!

 ワカナちゃん役の内田伽羅ちゃん、希林さんのお孫さんなのね。おばあちゃんと孫の共演とは!内田伽羅ちゃん、すごく美人さんだし、声が良い。ワカナちゃんという役だからなのか、ひとつひとつ言葉を確かめるみたいな話し方をしていて不思議な雰囲気の子だなとおもった。あと、小さな男の子に絵本を読んであげるシーンがとても良かったな。

 

 さて、このワカナちゃんも、徳江さんや千太郎と同じように、世間と少し距離がある。中学生であるワカナちゃんの世間とは、学校である。この年齢の少年少女にとっての世間や世界とは、学校の中だと言いきってしまっても過言ではないはずだ。義務教育中の子どもにとって、世界は非常に狭い。だからこそ、いじめを苦に自殺をしてしまう子どもがいるのだとおもう。自分が世界のすべてから否定されているように感じるのではないだろうか。とってもとっても狭い世界で、自分の居場所を見つけられなくなってしまうのではないだろうか。

 ワカナちゃんはけしていじめられているわけではない。でも、彼女の暮している世界には馴染めていないように描かれている。ワカナちゃんと一緒にどら春の店内に座る少女たちは、「勉強うざいんですけどお」だの、「家、すげえつまんない」だのと愚痴を零す(そして、徳江さんに「自分でつまるようにしなさい」と優しく諭されている。このやりとり可愛くて大好き。)。そんな少女たちの隣で、ワカナちゃんは静かに微笑んでいるだけである。そして、塾の時間だから行かなくちゃ、と、店を慌ただしく出て行く少女たち。ひとりぽつんと、店に取り残されるワカナちゃん。ワカナちゃんは、家庭環境が原因でみんなと同じように進学できないかもしれないのだ。だからみんなが行っている塾にも通えない。そんなワカナちゃんの前に、千太郎が「はい、出来損ない」と言って、焼くのを失敗したどら焼きの皮を積むシーンは、やめたげてよお!!という気持ちになった。形の崩れたどら焼き越しのワカナちゃんがめちゃくちゃ切ない。

 でも、そんな弱々しい印象の子が、最後には千太郎をそっと支えるのがぐっと来る。先に書いたように、ボロボロになっている千太郎を迎えに来たり、新作のどら焼き作りを手伝ったり。また、徳江さんの住むハンセン病患者の療養所に、千太郎は一人だったらきっと行けなかっただろうと思う。”世間から離されている”という点において、似たような境遇のワカナちゃんがいたからこそ、徳江さんに会いに行くことができたのだろう。そしてこの三人は、そういった共通点があるからこそ分かちあい、通じ合えることができたのではないかとおもう。

 ‥‥それにしても、ダメダメな中年のおじさんと素朴で美しい少女っていう組み合わせは最高にイイネ!!

 

▼「陽のあたる社会」と、白い割烹着とブラウス

 ワカナちゃんは、徳江さんの指の不自由さからハンセン病について知る。図書館で彼女が先輩(また、この先輩との関係が甘酸っぱくてムズムズ来た‥!)と開いた本には、ハンセン病患者の写真に、短いメッセージが添えられていた。その中のひとつが、「私たちも陽のあたる社会で生きたい」。

 ハンセン病を患った人々は施設に隔離され、社会から引き離された。徳江さんはワカナちゃんと同じ年齢のころに療養所に入れられ、国語の先生になるという夢や、未来への希望を奪われることになった。徳江さんはどら春で働くことが決まったとき、「でも私、本当に働けるのね」(22頁)と喜ぶ。そして、「できたてのあんを使いたいなら、お天道様が顔を出す前には始めないと」(27頁)と、バスの始発の出る前から出勤して来る。たしかこのシーン、映画では「お天道様はいいよ~」みたいな台詞もあったとおもうんだけど覚え違いかな‥‥観直す機会に確認します。

 初出勤の日、徳江さんはまだ暗いうちからやって来て、店の外で千太郎と挨拶を交わす。そしてあん作りをしているうちに朝日が昇り、白い割烹着姿の徳江さんが柔らかく白い陽の光に包まれる。とても印象に残る、美しいシーン。まさに、この場所こそが、どら春こそが徳江さんにとっての「陽のあたる社会」なのである。

 

 先で述べた、徳江さんが割烹着を脱ぐということの意味。これは、社会との隔離の表れである。徳江さんが少女の頃、療養所に入ることになったその時、徳江さんの母親は”メリヤスの白い生地”でブラウスを縫い、徳江さんはそのブラウスを着て家を出た。しかしその大切なブラウスは、規則だからと取り上げられてしまう。

 

 

 「それでね、とうとうここで診察を受けて……そのあとで、消毒薬のお風呂に入らないといけないのよ。それで、これまで着ていたものとか、持ち物とか、全部処分されるの。私は母が縫ってくれたブラウスだけは勘弁して下さいって、看護婦さんに泣きながら頼んだの。でも、規則だからだめだって言われて。だったら、兄が待っていますから、そのブラウスは兄に持ち帰らせて下さいって言ったのよ。そうしたら、家族の人はもう帰ったよって。あなたの身寄りはもうここにはいないのよって、名前も今日からは別名にしようねって。そう言われて……そんなふうに言われたのよ。私、ずっと声をあげて泣いたよ。なんでこんな目にあわなきゃいけないのかって。(略)」(141頁)

 

 

 白いブラウスを脱ぐことが、少女だった徳江さんの、社会との、そして家族との離別だった。そして四十年経ち、どら焼きのあんによって手に入れられたその陽の当たる場所とも、白い割烹着を脱ぐことにより離別する。‥‥と、いうことに、この記事を書きながら気づいた。もう一度映画を観たら、このシーンで泣いてしまうかもしれない。

 補足というか、映画じゃなくて原作の話なのだけど、原作の最後ではワカナちゃんが徳江さんのために白いブラウスを持って療養所を訪ねる(!!!ワカナちゃーん!!!!)。そして、森山さん(徳江さんの友人。映画では市原悦子さんが演じる佳子ちゃん)の「トクちゃん、良かったねえ。お母さんが縫ってくれたブラウス、ワカナちゃんが取り戻してくれたよ」(240頁)という言葉が泣かせる。映画を観たら、ぜひ原作もどうぞ。

 

▼終わる。

 わたしは、この「あん」という映画を、美味しそうなものを見て幸せになろう~~美味しそうなあんこいっぱい見たい~~~という食いしん坊丸出しな理由で観た。でも全然、美味しいだけの映画じゃなかった。見終わった後にじわじわと心に響いてくる、丁寧に作られた映画だった。それこそ、きっと徳江さんのあんのような。

 もう一度言うが、本当に素晴らしいエンディングなので是非あの余韻を体感してほしい!!やられたーッとなること間違いなしなので。

 

 美味しいだけの映画じゃないって言ったけど、もちろん、どら焼きはめちゃくちゃ美味しそうだよ!徳江さんにより、じっくりと艶を出されていく小豆と立ち上る湯気、そして千太郎の焼く皮がひっくり返されるときの、あの「パフッ」という小さな音!!リズミカルにひっくり返されていく皮が、その拍子にふかっと膨らみ、厚みを増す。溜息と涎が出そうになる超絶幸せ映像である。甘いものが実は苦手な千太郎が、徳江さんとはじめて作ったどら焼きを頬張る場面、永瀬正敏さんがめちゃ良い演技してます。

 普段あんこをあんまり食べる機会がないって人は見たらきっと食べたくなるんだろうなぁ。なにを隠そう和菓子屋で働いて毎日あんこを見ているわたしですら食べたくなったのだから。笑。

 

([と]1-2)あん (ポプラ文庫)

([と]1-2)あん (ポプラ文庫)

 

 

 

二〇一四年

 

ブログを書いたり、消したり、書いたり、消したりしてしまうのは、もうどうしようもないと諦めている。良くないことだともおもってはいる。

そして毎年、なぜか、十二月になるとブログを書く。我ながら謎である。

というわけで、今年もブログを書く。

 

去年は埋もれるように本を読んでいたのに、今年はあまり読まなかった。で、なにをしていたかというと、iphoneアプリのゲームばかりしていた。わりと反省している(でもきっとやめられはしない)。

読書をしなかったぶん、映画はよく観たようにおもう。しかし忘れっぽいので、これからはブログに感想を書いて、そのときに感じたことを書き留めていきたい。ブクログは最近またつけ始めました。

 

二〇一四年のわたしは今更ながら『エヴァ』にはまっていた。といっても、まだ、にわかと呼ばれる程度だけれども。でも、エヴァをきちんと見たというのは、自分にとって結構ためになったとおもう。良いこと。

 

卒業論文は「フィクションにおける少女像」について書いた。もっと早く書き始めればよかったのに‥‥とたくさん言われて、自分がいちばんおもっているだけに耳が痛かった。でも執筆するのはとても楽しかった(時間がないことだけが苦しかった)。

論文を書くにあたって、アニメをたくさん見た。ぼーっと見るのも楽しいけれど、「考察」という作業をしながら見るとより楽しかった。疲れるけれど。

学校を卒業したら、こうして作品を考察したり分析したりすることはなくなるのかな、とおもったらとてもさみしくなった。というわけで、ブログを開設することにしたのです。

 

どーーーせ大したことは書けないんだけど。