これは食べられません。

本とか映画とか。わすれないために。

【読書日記】 西加奈子『白いしるし』

 

 こういう言い方はあまり良くないかもしれない、とおもうのだが、間違いなく、わたしの日常的な読書はひとつの「逃避行動」である。だいすきな江國香織さんも、エッセイの中で、推理小説の物語の中に「逃げ込む」というようなことを書いていた。(いま、探してみたのだけれどどのエッセイに書いてあるのか見つけられなかったので、この表現は正確ではないかもしれない‥‥。)

 

 ともかく、読書をしていれば、わたしはなにも考えなくていい。本を読んでいるのだから、なにも考えていないわけではないのだろうけれど、でも、本を読んでいるときのわたしはひたすらに“無”だ。登場人物たちの語ることばを、彼らが巻き込まれる大きかったり小さかったりする事件を、ただ追いかけていればいいし、そこに浸っていればいい。わたし自身の個人的なむずかしいことはほうっておいて、本の中でめぐる季節の、風の匂いを嗅いでいればいいのだ。なにも考えたくないからそうする。だから明らかに逃避だと、おもっている。

 

 でも、この本はわたしを元の場所に戻してくれなかった。

 いつもは意識的に、あちらに出かけてこちらに帰ってくる。たとえば普段、わたしは出勤の電車の中で読書をする。それから、お昼休みにも、気が向いたら読む。退勤の電車の中でも読むし、お風呂でも、煙草を吸うときのベランダでも、寝る前のベッドの中でも、読む。お休みの日には、日が差し込んでくるソファに寝そべって読む。喫茶店で珈琲を飲みながら読む。(やっぱり、お休みの日の読書がいちばんの至福だなぁ。)

 

 そうやってあちらに出かけても、諸々の都合によりタイムリミットは来るわけで、そのときには本を閉じなければいけない。そして、あたまのスイッチも切りかえる。この作業は、普段はとても簡単。本を閉じれば、案外あっさりとわたしはこちらに帰ってくることができる。習慣づいているから。でもこの本は駄目だった。主人公の夏目の、強い想いにあてられて、かき乱されて、全然こちらに戻って来られない。仕事の日に読んでしまって、すごく困った。仕事中でもつい、あたまの中で文章を反復してしまうし、夏目のことを考えてつらいきもちになったり、彼女の目に映る恋の情景を思い浮かべて甘いきもちになる。ページを捲る手をなかなか止められなくて、許されるぎりぎりの時間まで次の一字を読もうとしてしまうし、読む時間がなくなるのが惜しくて、休憩時間にお手洗いに行くことすらできなかった。笑。

 

 はじめて「恋愛小説」を読んだとおもった。そんなわけはなくて、これまで何冊も読んできたのに。はじめての手応えだった。

 恋に落ちて、相手にどんどん惹かれていくこころの中が、切実な、正しく選び抜かれたことばで書かれていて、すごく痛い。夏目のこころが自分の手の中にあるような、手触りや形がたしかにわかるような、そんな感じ。すごい勢いで、強引に連れて行かれる。たとえば夜の公園に。5ページに渡って書かれる夏目と『間島昭史』の会話文は、他愛のないやりとりなのに、読んでいてふたりがめちゃくちゃに愛しくなる。ふたりに幸せになってほしいと、心からおもうことになる。ふたりに恋をさせられる。なんなのだこの文章は、とおもった。だってほんとうに、ただの会話なのに。

 

 『間島昭史』という男が、好きにならないほうがいい男だということは読んでいてなんとなく伝わってくる。とにかく危うさのある男なのだ。(でも残念ながらそれがとっても魅力的でこまる!)ああ夏目、それ以上深入りしちゃだめだよ、そっちは危ないよ、とハラハラしながらおもうけれど、でも恋をしている夏目の語りが、すごくイイのだ。

 

 目線が同じだった。彼がこの身長なのは正しい、と思った。あと一センチでも高かったら、彼の存在は人に圧を与えて仕方がないだろう。この目はどうだ。まっすぐ届く、大きな瞳孔は、律儀に結ばれた口は、どうだ。彼は、猫背で歩いた。それも絶対に正しい。彼は何かを隠さなくてはならない。彼の造形は、間違いなく『間島昭史』のものだった。(50頁)

 

 この情熱!彼についてなにか言いたい、言わずにはいられない、という夏目のきもちが伝わってくる。そして、恋は盲目というが、そんなフィルターを通して語られているに違いない内容も、きっと誰が見てもまごうことなき事実なのだろうとおもわせてくる間島というキャラクターの魅力。彼は確かに『間島昭史』なのだろう。それ以外に言いようがないのだ。

 そして間島は、夏目が自分で触れられないところに、正確に触れる。夏目が知らなかったこと、気づかなかったこと、その存在を夏目に教え、意味を与えてしまう。ふたりにしかわからない、ふたりだから共有できる感覚。体の深いところ。だからわたしは、このままふたりに幸せになってほしいと、願いながら読まずにはいられなかった。でもそこには間島の危うさのせいで、それに気づいているのに逃げられない夏目のせいで、ずっと“嫌な予感”がつきまとってくる。だから切実に願い、はやく先を先をと、ページを捲ってしまうのだ。甘い恐怖だった。

 

 ブクログでほかのひとたちの感想を読んで、驚いた。「わからない」「怖い」と言っているひとが結構、多かった。わたしはもうやめてくれっておもうくらい、目の覚めるような痛みと実感を持って読んだのになんで!?とおもった。でもすぐに、このひとたちはきっと自分で自分を律して生きることのできるひとたちなのだろうな、と気づいた。だって夏目は少々、情熱的すぎる。(たとえば、好きな男とおそろいの刺青を肩に入れてしまう。)恋にのめり込みすぎて、それを失ったとき、どん底まで落ちてしまう。もちろん、失恋は人にとって最上級の痛みだ。でも、成就しているときの恋でさえ、夏目には自分を見失うくらいの負荷となっている。そういう、ある人たちにとって、恋は毒そのものだ。でもその毒がなくては生きられない。だからきっと、自分もそっち側の人間なんだってことを、否定できないことに、気づいたよ。

 この物語に出てくるひとたちは、みんな、そういう人間だ。みんながみんな、恋のせいで度を失っている。だから怖いという感想を持つのも頷ける。そんなひとたちがすごいちからで両手を引っ張るから、本の世界からこちらに帰ってこられなくなるのだ。たしかになんて怖い本だ。

 

 読んでいるわたしも、彼らと一緒に恋をさせられることになる。登場人物の目となってそれぞれの思い人に、あるいは夜の公園に浮かぶ月になって、恋を始めているふたりに。読み終わって放心した。(仕事だったというのに、一日で読み切ってしまった。)この本を読み終わるということは、わたしもひとつの恋を終わらせるということだった。そんなわたしに、そしてそれ以上に夏目に、巻末の栗田有起さんによる解説は素晴らしい救いだった。失恋を慰めてくれる友人そのもので、なんてこころに優しい解説なのだ、とおもった。

 ようやくこちらに帰ってくることができたので書きました。強烈な読書体験だった。

 

白いしるし (新潮文庫)

白いしるし (新潮文庫)